運の良し悪し
よく、僕は運がいいね!って言われる。
けど僕から言わせるとみんな平等だと思っている。
用は自分に巡ってきたチャンスを掴む気があるのか無いのか
自分自身の気持ちで決まるんではないだろうか。
自分がどうしていきたいのかを一生懸命考えて、
こんな事がしたい!この人に近づきたい!自分がこうなりたい!
具体的に願ってアクションを起こしていると、
チャンスは必ず巡ってくる。
僕は今年ずっと現状に満足せず、自分がこうなりたいというのを思い続けていた。
今の組織では叶わない事を次の組織ではやるんだ!
って思っていろんな人に話していると、その想いを助けてくれる人がいっぱい現れた。
今はその人たちと一緒に、どうやってその夢を実現していくかを毎日考えている。
僕が会社を始めたのは、自分一人の力では成し得ないモノを作ろうと考えたからだ。
同じ想いの人を集めるという事は、自分の気持ちを人に伝えて同じ意識を持ってもらう必要がある。そこに一番時間をかけている。
僕がこの人だ!って思った人にはご縁を大切にして、本気で接して、
自分の想いをいっぱい伝えて、僕の事を好きになってくれる為に必死だ。
(僕もその人の事が大好きになるのは当たり前の話である)
結果、物事を上手く進める為に色んな人が一緒に頑張ってくれて、やりたい事の形ができる。
その人ともものすごく深い関係になれる。
それを外から見ると、そんな頑張りは見えないから結果だけ見て運がいいねってなるんだと思う。
僕は、物事を達成した時の喜びが幸せに繋がると思っているので、
僕の近くにいる人には、自分の夢を持って欲しい。
その夢を叶えようとしている時間は、
何も夢がない時より全然違う時間を過ごせる。
どんなに小さい夢でも、何か持つ事が大事である。
僕の思う運がいい人は、
夢があって、
ご縁やチャンスを見逃さず掴みとって、
きちんと形にする人
だと思う。
ここに来て未だ成長過程
会社で働くなら自分がどっちか知っときなさい
父との約20年ぶりの再会と別れ
僕の両親は僕が小学校に入る前に離婚し、うち母親はすぐに再婚した。
そして何故か父親姓のまま、母親方に育てられるという奇妙な存在で10代をやり過ごした。
つい数日前に父親に再会するまでは、最後に父親に見たのは16歳の時で父親は若い女性のヒモだった。
他の家庭にあるごく普通の出来事が全て羨ましかった。
母親の再婚した男性は何も文句を言わずに育ててくれた。
けどやはり父親ではなく、休みの日に友達の家に遊びに行くと一緒に遊んでくれる友達のお父さんを見るたびに、どこか普通ではない自分の家庭と比べていた。
自分で物事を理解できるようになった小学校高学年ぐらいからは、他人との比較で自分が勝っている部分を見つけ、そこをなんとか心の拠り所にしていた。
自分のほうがいい点取った、いい大学に入った、すごい人と知り合いだ、いい会社の仕事をしている、いい車に乗っているなど、未だにそういう価値観で動いているかもしれない。。
これまでの経歴は自分ではまだまだ人に誇れるものではないけれど、他人から見るとそれなりに成功している風に見える様だ。
全ては人より勝っていると思いたい一心で今まで必死にやってきた。
何が勝ち負けなのかよくわかってないんだけどね。表面的な所なんだろうな。
そんな価値観になったのは環境と僕自身の性格なのだろう。
話が急展開するが、こんな性格になってしまった原因と考えられる父親と約20年ぶりに再会した。
妹から父親が病院へ運ばれたと連絡が来たので、すぐさま僕も病院へ連絡すると家族の意思決定が必要との事でその日のうちに京都へ直行した。
彼は集中治療室で体中に線を繋がれ、生きているのか生かされているのかわからない状態だった。僕に顔が良く似ていた、そりゃそうか。
昔は背が高いと思っていたけどそうでもない様に感じた。ちっこくなったのかな?
それ以外は不思議と何も思わなかった。
彼とはもう話しはできなかった。たまに目を開けてボーッとしているがそれ以外の反応はない。
医者の話だと心臓停止の時間が長すぎて脳に十分な酸素が行っておらず、脳のかなりの部分が死んでしまっていてこの時点で意識が回復する可能性は低いとの事だった。
僕は彼に付き添う事を拒否し、全て彼の兄に託し滋賀の僕の実家(と思っている)へ戻った。
その2日後の昼、僕が洗車をしている最中に彼は亡くなった。
今まで「後悔しない様に意思決定する」が信念で基本的に後悔しない性格なんだが、今回1つだけ後悔している事がある。
20年分溜まっている話がしたかった。
見栄えだけでも良くしていた自分を褒めて欲しかったのかもしれん。
ただそれだけである。
子会社の社長 《大枠》
僕は今、子会社の社長である。
少し過去を振り返ってみる。
時は2011年、
前職はそこそこ大きめのゲーム会社にいた。
でも元々大きな組織は苦手だし、いつか自分でやれる環境がほしいと思っていた。
そこにソシャゲブームが起き、今なら会社としてやっていけると思って起業した。
当時は関東大震災からすぐで、世間がまだ震災の怖さで萎縮している中、資金もメンバー、会社設立に必要な準備もほぼせず(わかってなかった)今思うと無謀過ぎてよく動いたなと思うが、なんとか今も会社は存続できている。
お金も時間も明確な目標もなく、ただ自分たちの考える面白いゲームを作りたい、それだけを思っていた。
他社がどんどんソシャゲをゲームの1ジャンルとして理解し昇華させヒットを飛ばす中、我々は少人数かつ低予算で時間だけをかけて、他所に目も向けず自分たちの頭の中で作り上げた理想の1つ目をリリースした。
他社のソシャゲの楽しさはイマイチわからなかったし、メンバーも誰一人としてソシャゲを楽しんでいなかった。
だから運営方法もよく分かっておらず、ガラケーの公式サイトの様な更新を続け、当たり前のように日に日に売り上げは落ちていった。
「あんなつまらんゲームが月商何億だってよ、なのにこんなに面白いうちのゲームはなぜ人も滞留しないしお金を落とさないんだ!」
今思うと敗因は明白である。
ヒト・モノ・カネの全てが足りていなかった。
失敗すると会社が無くなるという意識も足りていなかった。
運営するにも人件費はかかる、次を作るにも開発費はかかる、
売上も上がらずメンバーのモチベーションはどんどんさがる。
僕自身にもお金は無く、生活レベルはどんどん落ちていった。
(自分の生活はどうでもよかったけど、低い給与で働いてくれていたのは本当に感謝している)
当然ながら、会社存続の危機が1年たたないうちに訪れた。
そこで僕は前職から手に入れた唯一の心のよりどころだった「自由」を捨て、僕の稼働は次のバッターボックスに立つ為の「金策」にのみ使うことにした。
クリエイターの視点から離れ、割り切って経営の立場からソシャゲと向き合うと、いろいろ見えた。
クリエイターの気持ちを少し残した経営者にジョブチェンジしたが遅かった。
1つ目リリース時の経験不足が、ずっと尾を引くことになる。(これは後日詳しく)
今思うとこの僕自身の変化に対しては何も後悔はしていない。
変にクリエイター気質を持って会社として機能しないより、経営者としてお金をきちっと回せる体制を作り、クリエイターが創れる環境を作り、未来を指し示すのが僕の仕事だ。
会社が無くなるより、次の1打を振るのを最重要項目として掲げ今4年が経った。
起業してから4年間、心が休まった日は1日たりともない。
どうでもいい話だが、2作目は言われるがままに協業し、失敗した。
ほかにも本当にたくさん失敗した。
その結果が表題にあるように僕は「子会社の社長」である。
初期メンバーはほとんど居ないが、今も大変ながらも会社はある。
この結果が自分の実力だと思っているし、得たもの、失ったものすべてがこれからやろうとしている事の糧になるはず(と信じたい)
今回は大枠を書いてみた。
たくさん失敗したでは済まされないネタがたくさんあるので少しずつ書いていきます。
自分の備忘録として、そして誰かスタートアップを始める方の役に立てば。
次回は、社員の退職・バックレ・裏切りなど人について書こう。
書くと言って1年放置
多分7月は起業した月だから、いろいろ思う事があるんでしょう。
1年放置していたブログを書き始める気になりましたので再開します。
起業して、気づけば丸4年が経とうとしています。
そして、5年は迎えない事を決めています。
30代になって、自分のやりたい事を形にしようと起業したはいいが、
いつのまにか1組織の中に入り、結局起業前と同じ事をしている。
いい加減アホらしいので来年は新しい事をしようかなと。
この4年でいろんなモノを得て、失って、どっちかっていうと失ったものの方が
大きくて、少しお暇を頂きたい気持ちもあるけど、そうは言ってられないので来年の事がある程度見えるまで動いてみるかな。
初ブログ
いつも考えてる事をアウトプットしなければ…!と思って早3年。
過去をさかのぼって、
会社経営にまつわるTips、失敗談など書いていきます。
宜しくお願い致します。